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「ベーデン パウエルの生涯

 制作 武藤賢之輔 S56年〜S60年カブ隊長
 

  やあ 諸君私が誰だか判るかい?

そう 私がベーデン パウエルおじさんだよ!通称 BPおじさんじゃ

私がそれ このボーイスカウト運動を始めたんだよ

「どうして、そんなことを始めた」 かって

その前に ちょっと私のことを聞いてくれたまえ


ワシは もともとは イギリスの軍人でな それも少将でナイトなんじゃ
今から150年くらい昔に 南アフリカのマフェキングというところでな
ボーア人との戦いがあってな ワシは 砦を7ヶ月もの間 守り抜いたんじゃ
そう! 一生懸命工夫して戦ったんだ
そして 多くの人達を守ったんだよ

それで 表彰されて将軍になり また マフェキングの英雄といわれるようになったんだ!!


私が生れたのは 1857年2月22日
今から150年以上前 イギリスのロンドンのハイドパーク近くの家じゃよ

私の父親は 大学の教授 科学者でもあり 牧師でもあったんじゃ

ところが その父親は 私が3才の時に死んでしまった


父親が死んでから 一家の生活はとっても苦しくなったんだが
母親は私達兄弟が 道を踏み間違えないよう 一所懸命大切に育ててくれた

私達は大きくなって 兄弟でボートで長い冒険旅行をしたり
近くの森で 野生動物の足跡を探したり わなをかけて野ウサギを捕らえて焚き火で料理したりして 森で生活することを学んだよ


そうそう ワシはな 学校の成績は あまりよくなかった
だがな 芸能には優れていて バイオリンを弾いたり 
演劇をしたり 歌も上手だった
絵も大好きで 軍隊に入ってからも よくスケッチに出かけていたよ

だけど 軍隊や学校に入るためには 一所懸命に勉強したよ


ワシは 軍隊では大変優秀な斥候だったんだよ
斥候って判るかな それはな 敵の様子を調べて報告をする つまり 日本の忍者みたいな役目じゃ

でも これは大変難しい仕事でな 猛獣や毒蛇 ジャングルや砂漠や
岩山などの厳しい自然の環境と それにいつ敵に見つかるかもしれない危険
それらに注意しながら 敵の様子を調べて一刻も早く帰って正しく報告する
これは大変責任のある難しい仕事だが 
それには 子供の頃に森で生活したり
 兄弟でボートで川下をしたりした 野外での活動や生活の経験が役に立ったんだよ

私は その後も派遣されたアフリカやインドで指揮官として活躍をした
そして その間に訓練の教科書となる『斥候の手引き』という本の原案を作ったんじゃ


ヨーロッパ アメリカ そしてアフリカでの任務を終わって 故郷に戻ったのは50歳のときだった!

だが 戻ってみて驚いた

町は煤煙で汚れ あわれな若者たちがあふれていた
これは若者達が 非行に走る前に何とかしないと!私は強くそう思った

そしてまずは 自分の体験を本にしてみようと
自然を観察し そこから学ぶことが役に立つことを知り 自分の学習に責任を持たせることが出来れば 子供達は良い市民に育つはずだ!

そして “スカウティング・フォア・ボーイズ”という題名の本を書き始めた
だが本だけではだめだ! 子供達と一緒に実践してみなくてはいけないと思った


私は ボーイズブリゲードの創始者ウイリアム・スミス卿の招きを受けて グラスコーで大会に出席し700名の参加者を視閲して 大会の熱気に感激した

そしてスミス卿から 以前私が書いた“斥候の手引き”のような本を書いてください と言われ 私はプログラムをもっと楽しいものにすれば この様な団体は 今の10倍以上に増えるだろうと思った

その後 新しく引き受けた任務の間にキャラバン車に寝起きして 方々を回りながら 少年達を教育する考えをまとめたんだよ

そして 『少年たちのためのスカウト訓練の概要』をまとめて ボーイズブリゲードのスミス卿の他 学校や各種のクラブに送ったんじゃ


1907年夏 私はアーサー・ピアソンという私が求めていた人に会い 自分の構想について話し合い 共感を得たんだ

そして 1907年7月25日いろいろな社会環境の中にいる少年たち21名を集めて プール湾にあるブラウンシー島でキャンプ生活をしたんじゃ

キャンプは2週間も続け 忍び 追跡などのゲームや開拓作業などを行い みんな自然の中で 生きいきとして活躍し キャンプは大成功じゃった


このことから多くの人達が賛成をしてくれる様になり やがて仲間が増え そして ついに1908年1月には『スカウティング フォア ボーイズ』という本が一週間おきに六冊発行された

それを読んだ少年達が次々にグループを作って 本に書かれたゲームに 熱中したんじゃ

そして 少年達は大人に隊長になってくれる様に 頼むようになってきた

1908年7月 そして「スカウトの独自の組織を作るべきだ」という投書や声が多く 寄せられ始めたんじゃ


そして
私はスカウト運動を広めるため英国中を訪ねて回ったんじゃ

そして 1909年1万人もの若者が集まった

驚いたことに 中に数人の少女たちもいたんじゃ

この子達は 後にガールガイドになる子たちで ガールガイドは やがてガールスカウトとなったんだよ


1909年 私は陸軍を退役してスカウト運動に 専念することにした

1911年になると多くの国々でもスカウト運動が始まったんだよ

運動が盛んになると 保守的な人達や宗教界などから 批判的な意見が出始めた

しかし 私は決して信念を曲げることはしなかった

それは 我々の目的は「子供たちの健康増進と共に人格や協調性の形成にあり 国籍 宗教 環境は問題ではなく また 政治や主義主張にとらわれるものではない!」 と堅く信じるからなんじゃよ


あ そうそう
そして わしゃ この年になって嫁さんをもらうことになったんじゃよ

少々 恥ずかしがったがなぁ

オラーブ・セントクレア・ソームスと言って とてもいい人なんだ
そして この人がガールスカウトの世界連盟を作り
1930年にチーフガイドとして運動の中心になってくれたんじゃ

それから10万人もの若いスカウト達が 寄付をして 私達夫婦に 車をプレゼントしてくれたのじゃよ 嬉しかったな!


ところが 大変悲しいことに 戦争が始まってしまった
第一次世界大戦だ!

「何ということだ ボーイスカウトを始めとする若者達が 何千人も殺しあうことになるなんて もっともっとスカウト運動によって平和を守ることに つくさなくてはならない」ワシは 固く 固くそう思った


戦争が終わったら スカウト達の立ち直りは早かった

この時 英国内にスカウトは ボーイが20万人 ガールガイドは12万人になっていた

そして 1911年ロンドン郊外にスカウト隊長を養成するセンターをギルウェルパークに作った

そこで皆んなで平和を祝い 国々の間に新しい友好関係をうち立てるとして 1回ジャンボリーをロンドンで開いた

そしたら 30カ国8千人もの人々が参加してくれた 黒い人も 黄色い人も 白い人もみんな 一つの制服 一つの理想の下に集まったじゃ


1928年ガールガイドとガールスカウトの世界連盟が作られた
1930年には私の妻のオラーブがチーフガイドになったんじゃ

彼女は世界中を回り どこへ行っても少女達の教育や
女性の訓練に心をくだいたんだ


私が この世を去ったのは1941年 
またまた始ってしまった第二次世界戦争の最中であった

そして 妻のオラーブは1977年『スカウト運動は 常に未来を目指しています 結果は新たな始まりなのです』 の言葉を残して 私のもとへやってきた

スカウト運動も 大戦後すばやく立直り 今や全世界で活発に展開されているようじゃ

今は諸君らが崇高なスカウト精神のもと 日々活動してくれているのを 二人で大変嬉しく見守っているよ

*この「BPの生涯」は、多くの方に観ていただくためリンクフリーですが、入団案内にある連絡先に一言断りを連絡してください。
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